お寺の沿革

 本願寺が大坂天満から京都堀川(現西本願寺)に移った翌年の文禄元年(1592)に十一代目の顕如上人が亡くなっている。長男の教如上人は継職されるが豊臣秀吉の命によって文禄2(1593)に退隠している。奈良県の大和高田市大谷にある大和大谷別院は同年に教如上人によって開創された寺である。

 上人が吉野遊行の折に、正行寺(大谷派・奈良県大和高田市有井)に滞在中に村近くの大谷山に遊び、この地が「大谷」ということを聞き、宗祖親鸞聖人ゆかりの名と同じであることを喜び、山上にあった真願寺を村に移し坊舎を建立したのが大和大谷別院の起源である。また、御本尊は真願寺の阿弥陀如来像を移したと伝えられる。

 江戸時代の文化10(1813)に大谷派本願寺第二十代達如上人がご消息を出して大和一国の寺院門徒を崇敬下とし、また、1884(明治17)には第二十一代厳如上人が大和一円の崇敬別院となす旨のご消息を出している。

 かつては、旧街道沿いに位置し、本堂はじめ会所や輪番所、庫裡、鐘楼、太鼓楼や庭園を誇る別院であったが、大正、昭和を経て、特に戦後は老朽化が進み、本尊などの避難を余儀なくされ1978(53)に取り壊された。
しかし、1980(55)に地元寺院や門徒の尽力で再建され、1986(61)4月に落慶法要を厳修している。