2025年12月掲示板
今月の言葉は、日本人の「かなしみ」の構造を深く見つめられた竹内整一氏の一文です。(『花びらは散る 花は散らない』角川選書)
近年「脱○○」「○○2.0」といった、古いものを手放して新しさを求める風潮がありました。しかし竹内氏は、新しさとは「これまで」を置き去りにすることで生まれるのではないと語ります。歩んできた軌跡を忘れると、人は前に進めない、と。
これは仏教の時間観「去・来・現」に通じます。過去と未来は〝現(いま)〟を拠り所とするもので、未来ばかりを願うのではなく、過去にも同じくに目を向け、その上で今を起点に生きる大切さを説きます。
同書では将棋の羽生善治さんの言葉が紹介されています。長考の際、羽生さんは未来の可能性を読むよりも、初手から現在の局面に至る〝過程〟を確かめ直すことが多いと語ります。どう進んできたかを見つめれば、次の一手は自然と浮かぶからです。
作家ポール・ヴァレリーは「われわれは、後ずさりしながら未来へ入っていく」と述べています。未来を予測し決めつけることには慎重、時には否定的で、むしろ歩んできた経緯を確かめ直すことに重きを置いた人だったようです。
「新しいものを生み出す」と聞くと、古いものを捨てねばと思いがちですが、実際には悔いや失敗も〝重荷〟ではなく、未来へ向かうための素材なのだと、この言葉は教えてくれます。年の瀬のいま、そうした〝これまで〟を大切に抱きしめることが、次の一歩をつくる力になるのでしょう。
2025年11月掲示板
今月の言葉は、中国・唐の時代の禅僧、永嘉玄覚大師のことばです。
「二乗は精進して道心なく 外道は聡明にして智慧なし」――難しそうに聞こえますが、実は私たちの暮らしにも通じる教えです。
「二乗」とは、仏教の用語で『声聞』と『縁覚』というあり方のことです。仏の教えを聞くには聞くのですが、全てを自分の力で理解し、悟ろうとする人々です。まじめで努力家。でも、自分中心の理解や悟りにこだわるあまり、他人の苦しみに心が向けられないことがあります。だから大師は「二乗(声聞・縁覚)の努力熱心(精進)は認めるけど、人を救おうとする心(道心)がないね」と言います。
一方、「外道」とは本来ヤクザ用語ではなく、仏教の外にいる人のことを指します。宗教に関心がなく、世間の勉強や仕事にばかり励む人たち。頭がよく知識も豊かですが、知識の量を得ることばかりで「手放す」ことを知らない。よってそこには仏のちえ、すなわち智慧(prajñā)がないなぁ――と大師は言うのです。
――なんだか現代人に対する痛烈な皮肉にも聞こえませんか?
インドの言葉では「知恵(jñāna)」は巻き取るちえ、知識や経験を集めていく力。現代の学びはこちらばかりに傾きがちですね。それに対して「智慧(prajñā)」の「慧」は〝見抜く・ゆるめる〟という意味をもち、ほどく力をあらわします。
仏教では「得るよりも、ゆるめる」。その中に本当の安らぎがあるのかもしれません。努力も学びも大切ですが、力を抜いて「ただ聞く」ところから始まる道もあります。
玄覚大師の言葉は、そんな〝やさしい智慧〟への入口をそっと示しているのだと思うのです。
2025年10月掲示板
「敷居を跨げば七人の敵あり」と言うように、世の中にはどう頑張っても意見の合わない人がいます。その人に悪気がなくても、私からは悪人に見えてしまいます。しかし、お釈迦さまは「悪人は、尊敬を受けると滅びてしまう」と説かれます。尊敬を向けられることで、相手は悪人でいられなくなるというのです。一見、受け入れにくい言葉ですが、深い示唆があります。
哲学者・池田晶子は、著書『十四歳の君へ』で戦争について触れ、「戦争は悪、平和は正義」と信じる私たちに、〝果たしてそう言い切れるか〟と問いかけます。彼女の考察は、そもそも戦争は個人のケンカと違い、「集団」が起こすもの。そしてその「集団」とは人間の頭の中で勝手に線引きし、つくられたものと論じます。その結果、「集団どうしの正義と正義がぶつかる時、悪である戦争が生まれる」と。単純な平和論と異なり、人の善悪の本質をつく考察です。
私が誰かを悪人と決めつける時も同じでしょう。私の「正義」の物差しが相手を悪人にしてしまう。一方で相手もまた、相手の正義で私を悪人と見ているのです。つまり、正邪を超えて考えれば、相手は悪人というより「自分とは異なる正義を生きる人」なのです。もしそこに、少しでも尊敬を寄せることができれば、世界中で起きている争いを超える道が開けてくるのではないでしょうか。
悪口よりも、少しの尊敬を。お釈迦さまの言葉はその大切さを教えてくださっていますね。
2025年9月掲示板
こんにちは。残暑厳しい中ですが、朝晩少しだけ秋の空気を感じられるようになりました。今月のことばは、親鸞聖人のお言葉です。聖人は「自然」と書いて「じねん」と読まれました。
「自然」と聞くと環境保護や大自然の驚異を思い浮かべ、人間と自然を対立させがちです。しかし本来、私たちも自然の一部です。「自然を守る」と言いますが、実は自然に包まれ、自然と共に生きているのです。それを忘れ、自分の力で何でもできると思い込むところに現代人の「不自然さ」があるのかもしれません。
聖人のおっしゃる「自然」は、はるかに大きな広がりをもっています。『この世で起こる出来事は、あらゆるものが関わりあって生じており、人間の小さな企みで左右できるものではありません。私たちは皆、その大きなはたらきの一部なのです』と。
「りょう」とは「料」と書くそうで、「手がかり」という意味です。親鸞聖人は、世間で起こるさまざまな出来事を「考える手がかり」として受けとめなさいと示されました。
たとえ納得のいかない現実があっても、「私もその一員である」という事実を忘れてはいけないのですね。その悲しい業を積む人間を、阿弥陀さまは静かに見守ってくださっています。日々、そうした深い悲しみを生きる私たちもまた、見えない大きなまなざしに抱きとめられているのです。
2025年8月掲示板
こんにちは。暑い日が続きますね。どうぞご自愛ください。
さて、かつてある先生から「浄土真宗とは“ひっくり返る”教えです」と教わりました。
宗教といえば、神仏に願いごとをするものと思いがちですが、お釈迦さまの教えはそうではありません。祈りや学びを通して、自分の在り方を問い直す道です。
「ひっくり返る」とは、当たり前と思っていたことに「ほんとうにそうかね?」と問いかけられ、新たな気づきをいただくこと。今月の掲示板の言葉も、まさにそうです。
たとえば「教える人」と聞けば、先生や師匠が浮かびます。ふつうは、教える側が偉いと思われます。でも仏教では、「教えられる人」こそ大切だと説かれます。
お釈迦さまは、目の前の相手にふさわしい言葉を尽くして教えを説かれました。そして、その教えが意味を持つのは、聞く人の心に響いたときです。言葉と聞く人の経験が心の中で思わぬ変化を起こし、その人の目覚めを促すわけです。
だからこそ、浄土真宗では「念仏」とともに、「聞法生活」が大切にされてきました。教えを聞き、自らに照らし返すところに、仏法のはたらきがあらわれます。
今月の言葉、どうぞ声に出して味わってみてください。
「教える人よりも教えられる人が大切である。教えの大きいことや深いことは、教えられた人の自覚によって明らかにされるものである。それが仏道というものである。そうでないといたずらに子分となって、結局じり貧に陥ってしまう」〜安田理深・真仏土巻聴記より〜
2025年7月掲示板
毎日暑いですね。まだ7月なのに残暑のようなうだる暑さと湿気にうんざりします。どうぞ体調にお気をつけください。
今月の言葉は聖徳太子の「十七条憲法」からいただきました。聖徳太子は日本に仏教を伝え、親鸞聖人も「和国の教主」と呼んで深く尊敬されました。
「三宝」とは「仏・法・僧」の三つの宝を指します。「仏」はお釈迦さま、「法」は阿弥陀様の願いを伝える教え、「僧」はその教えを共に聞く仲間です。教えを聞く仲間がいなければ、自分の迷いにも気づけません。
ところで「循環彷徨(または環形彷徨)」という現象をご存知でしょうか。人は目印のない場所に置かれると、まっすぐ進んでいるつもりでも少しずつ曲がり、円を描いて戻ってしまうというのです。従来、利き腕や足の長さが主な原因だと思われていましたが、2009年、ドイツの研究チームによる実験では、利き腕や足の長さは関係ないことがわかりました。ただ、従来の予想どおり太陽や月、遠くの山など目印があればまっすぐ進めても、それを失うと人間が曲がってしまうことは間違いないと実証もされました。ここで重要なのは、利き腕とかに関係なく、人間が平素全身で受け取る感覚情報に常に誤差があって、その誤差が積み重なると無意識に曲がってしまう、ということです。
私たちも思い込みや情報に流され、正しいつもりで知らないうちに迷ってしまいます。そんな時こそ〝まっすぐ〟に戻るため、「阿弥陀様の前で手を合わせてごらん」と、聖徳太子が今も呼びかけてくださっているように感じます。
2025年6月掲示板
2025年5月掲示板
6月になってもまだ冷んやりする日が続きます。今月の掲示板は、加賀の三羽烏といわれたひとり、高光大船さんの言葉です。
ふとしたことで意見が合わず、言い争いになる――そんな経験は、誰にでもあることでしょう。そこで「わかり合おう」と、お互いに言葉を尽くす。言葉で生きている私たちにとって、それは当然の行為です。けれども、そうやって努力すればするほど、かえって互いの自己弁護に終わってしまうことも少なくありません。
私たちは「わかる」ということに、とても強く執着しています。それは、「近代」という時代の土台に「知性による理解」が据えられているからです。わかることは善、わからないことは悪――そんな価値観のもと、私たちは知性をもっとも大切なものとしてきました。「よくわかる○○」なんて見出しをよく目にするのも、そうした感覚のあらわれでしょう。
けれども、本当に知性は最優先されるべきものなのでしょうか。もしも知性の極まった姿が、今の世界の現実だとすれば、それはむしろ問題に満ちてはいないでしょうか。言葉で互いを傷つけ合い、知性に絶望し、自らをも見捨ててしまう――そんな世の中のありさまを超えて、「人間の知恵には限界がある」と教えてくださるのが、仏の「智慧」です。仏の智慧は、私たちのものの見方・価値観を、逆の方向から照らし出し、見つめ直させてくれます。
それを先達は、「仏法に出遇う(であう)」と表現されました。それは、知性の衣をまとわず、心と体でその教えにあう、ということです。そこでは、「わからなくても聴く」という姿勢が大切にされます。親鸞聖人が勧められた「南無阿弥陀仏」も、まさにそうしたはたらきのあらわれです。本来は全身をもっていただくべきものを、私たちはまたぞろ頭だけで理解しようとして、結局「わからない」ままでいるのかもしれませんね。
2025年5月掲示板
今月の掲示板のことばは、仲野良俊先生の「自分が大切である だから 他の人を大切にする」です。「自分が大切」と言われると、どこか利己的な響きもあって、モヤっとした気持ちになる方もおられるかもしれません。でも、私たちは本音のところでは、やはり「自分が大切」と感じているのではないでしょうか。
ただ考えてみると、「自分」は自分一人だけで成り立っているわけではありません。私の顔、体、着ている服、住んでいる家、どれも自分のものではあっても、それらはすべて他者との関わりや社会の中で与えられてきたものです。自分を取り巻くものをたどっていけば、家族や地域、国、そして世界につながっていきます。つまり、「自分」はすでに「他者」と切り離せない存在なのです。
この世界とは、自分以外の「誰か」が生きている場所です。そしてその「誰か」も、私と同じように「自分が大切」だと思って生きています。そのことに気づいたとき、「自分を大切にすること」と「他の人を大切にすること」は、決して矛盾しないのだとわかってきます。
仏教には「本尊」という言葉があります。本来的に阿弥陀さまを意味する言葉ですが、「本当に尊いもの」という意味を持ちます。いっぽう、現代を生きる私たちは、知らず知らずのうちに、自分の知識や経験、自分の考えこそが一番だと(ついにはそれが本尊かもと)、どこかで思い込んでしまってはいないでしょうか。そんなときこそ、本当に尊いもの――私たちのいのちを支え、生かし、包んでいる世界そのもの――に、そっと心を寄せて、手を合わせてみたいものですね。
2025年4月
タゴール
2025年3月
竹中智秀
2025年2月
宮城顗
2025年1月
映画『一人になる』より
2024年12月
外川哲
2024年11月
作者不詳
2024年10月
浅田正作
2024年9月
松尾芭蕉
2024年8月
ボブ・ディラン
2024年7月
竹中智秀
2024年6月
『満ちてゆく』藤井風
2024年5月
親鸞聖人
2024年4月
作者不詳
2024年3月
酒井義一
2024年2月
ルー・ホルツ
2024年1月
マハトマ・ガンジー